必要以上に死を恐れる人がいる。
タナトフォビアという症状らしい。
私はおそらくそれだ。
お寺の子ということもあり、妙な言い方だが、死には慣れ親しんできたつもりだ。
ただし、それはもちろん他人の死である。
それとは別次元で、自分自身の死を考えるとどうしようもなく不安になる。
二度とまた私という存在に再生することはないだろうし、そもそもこの意識がいつかなくなってしまうことが理解できない。
私は二度と目覚めることがないのにいつまでもこの世は存在するなんて、そんなことあってたまるかと思う。
お恥ずかしい話、今でもときどき、死ぬことが怖くなって夜中に大声を出してしまう。
小学生の子どもならまだしも、もうすぐ四十になろうかという大の大人が、である。
大きな声を出すと一旦は落ち着くのだが、その強迫観念はウイルスのように体に潜伏を続ける。
そしてまた半年に一度かそこらの間隔で、出口のない実存的不安に襲われる。
しかも厄介なことに、この死神は夜中のベッドの中だけでなく白昼のデスクの上にも突如として現れるのだ。
ハイデガーが言うように、自らの死はだれにも体験できない。
死ぬときには自分ではなくなっているのだから、いくら存在の不条理を嘆いてみてもそこに救いはない。
死ぬ気でなんでもやってみろ、と自分に言い聞かせていくぶん破天荒なこともしてきたが、どれも根本的な解決には至らなかった。
10年ほど前だったか、『トランセンデンス』という映画を見た。
脳のデータをパソコンにアップロードして、ネット上で永遠に生き続けようとする話だった。
肉体は滅びても精神は器を替えて保存される、うんぬんかんぬん。
最近では、チラホラと都市伝説的に、そういったSF世界の到来がまことしやかに囁かれているようだ。
生きているうちに間に合うだろうか、なんてことを結構マジで考えていたりする。
不老不死は幸せか?
とりあえず、そうなってみないとわからない。
映画『勝手にしやがれ』で、ジーン・シバーグに「人生の野望は?」と聞かれたジャン=ピエール・メルヴィルは「不老不死になって死ぬこと」と答える。
これぞ、我が意を得たり。
とはいえ、新年からなんと陰気な話だろう。
でもまぁ、思いついちゃったんだから、しょうがない。
とりあえずの気晴らしとして、目の前のタスクをこなしていくべし。