仏に縁がある。

お寺とフランス、漢字で書けばどちらも仏。

 

18歳の冬、国立大学の受験に失敗し、第二志望の私立大学へ行くことになった。

第一志望は教育学部だった。

ぼんやりと英語の先生にでもなろうかと考えていたのである。

第二志望は文学部だった。

こちらは出願時に英米文学、仏文学、独文学、日本文学のなかから志望順位をつけさせられる。

ぼんやりと英語の先生にでもなろうかと考えていたので、第一志望に英米文学、第二志望に仏文学を選んだ。

仏文学専攻に合格した。

 

第一志望の大学には落ちたし、第二志望の大学のなかでも第二志望の学科にしか合格できなかったことで私の自尊心は傷つき、人生に対する敗北感がその後しばらくしこりとして残った。

しかし、神戸にほど近い閑静なキャンパスで香り高きフランス文学を学ぶことは私の性向に合っていたのかもしれない。

時の流れに取り残されたようなイケおじイケおばインテリ教授たちに、フランス語をイチから教わりながら好きな作家の研究をする。

すぐにその、象牙の塔と言えば響きが良すぎる、ぬるま湯のんべんだらり生活に浸りきった。

ここで自我形成されたペダンチックな生き方は、いまもそれほど変わっていない。

 

とはいえ、親元を離れて好き放題に暮らしていた私は、大学にも碌に行かず遊び呆け、必要最低限の単位で卒業した。

本格的にフランス語を学び直そうと思ったのは、大学院進学のタイミングで専攻を仏文学から映画研究へ変更してしばらく経ってからだ。

知らない人ばかりの大学院生活に馴染めなかった私は、そもそも修士課程の2年間で修了するつもりだった。

しかし、大学4年次同様、そのときも就職できなかった。

しかたなく博士課程へ進むことになった。

腹を括って研究者になるには自分の強みを見つけるしかない。

そこで何を思ったか、フランス映画を専門にしようと思ったのである。

卒論こそコクトーの映画で書いたとはいえ、修士課程ではアメリカのインディペンデント映画を研究し、修士論文ジャームッシュだった。

そんなレベルで研究者としての強みを、ぬるま湯でひと口齧っただけのふやけたフランス語に託しただなんて、浅はかな考えであった。

 

もっと浅はかだったことは、博士課程の2年目に休学して単身パリへ留学したことだろう。

留学よりも「遊学」の漢字の方が感じが出るのは否めないが、とにかく日本を離れたかった。

何を根拠にしてか、行くなら今しかないと思っていた。

親をだまくらかして1年間パリで暮らすお金をふんだくったはいいが、研究と言われても何をしていいかわからず、とにかくひたすら映画館に通った。

さすがにリスニングとリーディングの能力は上がったように思う。

しかし、それが何になったというのか。

アカデミックなことは何もせず、パリの空気を吸ってただ生きていただけ。

26歳の1年間は、我が人生最大のモラトリアムであった。

 

唐突だが、漫画『スラムダンク』の谷沢くんが安西先生へ宛てた手紙の一節が好きだ。

「バスケットの国アメリカの、その空気を吸うだけで僕は高く跳べると思っていたのかなぁ」

その後、安西先生は白髪鬼から白髪仏へ。

あ、ほらまた仏。