アーツ・アンド・クラフツ運動の主導者ウィリアム・モリスが言うように、生活の中に芸術は必要だと思う。
モリスの主張とはややニュアンスが違うが、きれいなものに囲まれていた方が生活は整っていくように感じられる。
2014年2月、住み慣れた西宮から京都の宇治へ引っ越した。
JR六地蔵駅から歩いて御蔵山をのぼること15分、比較的高級な住宅街に母方の祖父母の家があった。
2011年12月に祖父が亡くなり、すぐに祖母は広島の実家に引き取られたため、その家はしばらく空き家となって放置されていた。
当時の私は、前年までに大学の奨学金をもらい終わり、かといってその後すぐに大学の仕事なぞにありつけるはずもなく、塾講師で小銭を稼ぎながら、いまだその日暮らしの生活を続けていた。
そんなとき、幼い頃の楽しかった「宇治のおばあちゃん家」の記憶がふっと蘇り、移り住んであれこれ手入れをしながら、遺品整理もかねてリフォームしてみようと思い立ったのだ。
六地蔵へ移り住めばもちろん家賃はかからないし、何より庭付き一戸建てに一人暮らしできるなんて夢のようだとワクワクした。
その考えは甘かった。
家はゴミ屋敷と化していた。
まず、ものが多い。
祖父の趣味はカメラで、アマチュアというか、セミプロぐらいの写真家だったそうだが、とにかくカメラや三脚やフィルムやアルバムなんかが、大事そうに大量に保管されていた。
その他にも衣類、食器、家具、寝具など、数十年分の生活感がほぼそのまま残っていた。
まずはそれを捨てなければ住むことができない。
比喩ではなく、実際に足の踏み場もなかったのだ。
それだけでなく、庭は荒れ果て、トトロの森のように育った植木はお隣さんの庭にまで侵入していた。
とにかく、毎日草を刈り、ゴミ袋に詰め、木を切り、ロープで縛り、ゴミに出し、また草を刈り、ゴミ袋に詰め、、、を延々と繰り返した。
しかも、間が悪いことに、移住した直後の2014年4月から、大学で研究室のアシスタントの仕事を任され、六地蔵から西宮まで、京阪と地下鉄と阪急を乗り継ぎ、毎日2時間半かけて通うことになった。
そのため、家の掃除ができるのは土日のみとなり、すべてが片付いたのは、移り住んで1年半ほど経った頃だった。
1階には、6畳2間の和室、台所、トイレ、風呂場があった。
とりあえず寝る場所の確保を、と和室からまず手をつけた。
和室の南側は全面窓ガラスの引戸になっており、縁側の向こうに庭が見渡せた。
日当たり抜群の和室をさらに開放的にするため、6畳2間の襖を取り除き、12畳1間のリビングとした。
家具や寝具などはまだ使えそうなものもあったが、申し訳なく思いながらもほぼすべて粗大ゴミに出した。
けっして趣味がいいとは言えない灰色のカーペットを剥ぐと、半分腐ってしなしなになった畳が現れた。
掃除機をかけたあと、スチームクリーナーで一気に拭き上げる。
しかし、衛生面の不安は拭えず、畳の表面もポロポロと剥がれてくるので、新しくラグを敷いた。
ボロボロの畳を踏まずに済ませるように、6畳をカバーできる大きさのものをふたつ買い揃えた。
仮住まいのリビングには、ベッドにソファ、テレビ、書斎机、それから本棚も置くことができた。
元々あった少しだけ趣味のいいガラス棚ふたつと木製の丸いコーヒーテーブルは再利用した。
これで寝る場所と仕事を片付けるスペースは確保できたわけで、とりあえずの生活はできるようになった。
次は台所。
私の母は3姉妹で、元々は5人家族の住む家だったため、キッチンも広々としていて、大きなダイニングテーブルが置いてあった。
冷蔵庫も高齢者ふたり暮らしに似つかわしくないほどの大きさで、ありし日の食卓に並ぶはずであったこんにゃくや味噌がそのまま残されていた。
食べられるはずもないので全部捨てる。
全部ぜんぶ、とにかく捨てまくる。
それこそ、モリスのようなボタニカルな壁紙やマットも全部ひっぺがしてゴミに出す。
買い替えたばかりで新品同様だった3口のコンロはよかったが、問題は換気扇。
数十年分の油や埃が真っ黒に固まって、コールタールのような頑固な汚れになっていた。
根気よくスチームで落とし続け、丸一日かかってやっと換気扇が回るようにはなったが、これは日々使いながら手入れして、少しずつ綺麗にしていくしかないといったん諦めた。
キッチンが終われば、トイレ、風呂場、廊下をスチームクリーナーで磨き上げた。
スチームクリーナーは優秀だった。
水回りの垢やカビ汚れを落とすのはお手のもので、さらには板張りの廊下にツヤを出してくれる。
いつしか、もとのスチームクリーナーの性能ではもの足りなくなり、大金をはたいてさらに高性能なものに買い替えた。
使わなくなった初代スチーム君は、大学の研究室に持っていき、入学式や卒業式の前など、床をピカピカにするのに役立てた。
その後、研究室に寄付したが、私のあとのアシスタントはだれも使っていないらしい。
廊下と台所の床はところどころシロアリにやられ、ベコベコだった。
しかし、直すには時間もお金もかかりそうだったので、その部分はなるべく踏まないように注意だけして、当面ほうっておくことにした。
そういえば一度、巨漢の先輩が遊びに来たとき、説明する間もなくそこを踏まれてしまい、あやうく床が抜けそうになったことがあった。
何事も後回しにするのはよくない、と思いつつも、優先事項はとにかくものを減らすことだった。
2階のそれぞれ6〜7畳ずつぐらいの3部屋には、寝室、ウォークインクローゼット、書斎を作った。
2階も大量のゴミ、もとい思い出の品々に埋め尽くされ、写真フィルム、アルバム、カメラ類、娘たちが使っていたと思しき二段ベッドまで、何から何までそのまま残されていた。
もの持ちが良すぎるのも良くない。
祖父は宇治茶の通信販売なんかもやっていたようで、両手でやっと抱えられるぐらいの大きな茶箱や、お茶屋さんに並べればそれなりの格好がつくような小洒落た茶筒が大量にあった。
きれいな茶箱はいくつかインテリア用に確保し、残りはすべて粗大ゴミ置き場へ放り投げる。
ちなみに、宇治市は結構ゴミ出しルールがユルく、燃えるゴミの日に大きな本棚などを出していても、大概は持っていってくれた。
2階のゴミ出しも順調に進み、徐々に床が見え出したある雨の日、1階のリビングでくつろいでいると、ポツンポツンと規則的でなんだかイヤな音が聞こえた。
2階のひと部屋が雨漏りしていたのだ。
その部分の天井はもう腐りかけていたので、早急に対処が必要だった。
大工を呼べばよかったのだが、ひとりで直すという使命感とココロオドル冒険心から、なんとか無い知恵を絞って策を講じた。
はじめ、雨漏りの真下に祖父の形見の大きな茶壷を置いて、水琴窟みたいにするのはどうだろうと考えた。
その部屋は書斎にするつもりだったので、水面を叩くキーンとした雨音を聴きながらデスクワークができるなんて、こりゃあ風流だぞと思った。
しかし、キーンどころか、ポチャポチャと締まりのない雨音にしかならなかったことにくわえ、雨漏り箇所が3箇所もあり、茶壺が足りないのでこのアイデアは泣く泣く断念した。
代替案は、布団圧縮袋を切り開いて即席の防水シートを作り、天井に押しピンで留めるという荒技。
しかし、これだけだと雨垂れをうまく排水できないので、さらに改良を加えた。
その部屋は祖父が暗室として使っていたので、壁面に大きな現像用の流し台があった。
流し台を例によって暴力的に取っ払ったあとは、排水溝だけが淋しく残っていた。
その穴に洗濯機の排水ホースをつけ、反対側を天井のシートと接続した。
そうすれば、天井から漏れる雨水は、シートで受け止められ、端に設えたホースを伝って排水溝へと流れていく。
なんとも風流からは遠く離れてしまったが、こちらは応急処置としては及第点だった。
混沌から秩序が生まれる。
エントロピー増大の法則から言えば、秩序から混沌が生まれるのだから、整理整頓という人間の営みは宇宙の摂理に挑むようなものだ。
しかし、だからこそ美しいのではないか。
混沌=自然を飼い慣らすことから美は生まれるのではないか。
そんなこんなで、すべて自分の思い通りに家を作っていく感じが妙に楽しかった。
秘密基地をイチから作り上げていくようなワクワク感というか、窪塚洋介よろしく「我が城」が徐々に築城されていく高揚感というか。
生まれ変わったらインテリアデザイナーか大工さんも悪くないな、とは素人の戯言。
その後、2015年5月に祖母が亡くなり、2020年8月に私は大阪へ移り住んだ。
幼少の母が祖父母と暮らし、壮年となった私が6年ほど住んで愛したその家は、いまは更地となっている。