重い虚しさ

ナルシスは川面に映ったみずからの姿に憧れ、分裂を無化するためにその鏡面へ飛び込んだ。

ふたつの影が重なり合った瞬間、彼らの姿は粉々に砕け散った。

いまや愛することは破滅を意味する。

 

ここ数年、大学教員の常勤職の公募にトライし続けている。

先日、めずらしく面接に手応えを感じ、やっと職にありつけるかと思ったら、今回も結局ダメだった。

もう少しで手が届きそうで、やっぱり届かなかったときの悔しさといったら。

 

あらゆる執着を捨てよ。

とは言うけれど。

去年と何も変わっていない。

まるで成長していない。

生まれてはみたけれど。

 

12月になると毎年、御堂筋はきらきらとした電飾でライトアップされる。

クリスマスの雰囲気は大好きなのに、わたしにとってそれは冷血な美しさとでも言いたい、もの悲しい何かであり続けている。

 

25歳から28歳まで付き合っていた恋人はメキシコに留学していた。

メキシコの民族衣装の研究者で、年はわたしよりふたつ上。

現地の山奥の村に勇猛果敢に単身で乗り込むヴァイタリティ溢れる女性だった。

彼女の一時帰国中に付き合うことになり、彼女の方はあちらに置いてきたイケメンメキシカン彼氏と別れることになった。

うつらうつらと夢見心地のわたしの横で、ポチポチと別れの挨拶を打ち込んでいた彼女を思い出す。

 

付き合った当初、わたしは日本にいたが、その後すぐにわたしもフランスへ留学したため、日本とメキシコ、フランスとメキシコで遠距離恋愛を経験した。

昼夜逆転の生活でもメールやテレビ電話を駆使してなんとか楽しくやっていた。

たまに会えない寂しさを呪い、街のイルミネーションを一緒に見たいとつぶやいたこともあった。

無理とはわかりながら、たまには愚痴っぽく言わせてほしかった。

街をゆくカップルはあんなに幸せそうなのに、わたしはあなたに会えない。

あなたに会いたい。

 

相手のことを考えているようでいつも自分のことばかり考えていた。

情けないことにそんな身勝手さは今でも何も変わっていないと思う。

何年経っても同じことの繰り返し。

 

声が聞きたいと言うのはいつもわたしから。

おやすみを言うのはいつもあなたから。

なかなか電話を切らないわたしをあなたは笑った。

 

日本に帰国してから彼女は美術館の学芸員として働くことになった。

今度は国内での遠距離恋愛が始まった。

他に好きな人ができたわたしは、すぐに別れ話を切り出した。

好きになった人にはフラれた。

またも藪から棒に嵐を呼んで、ふたつの心をしっちゃかめっちゃかにしただけだった。

 

どんな言葉を吐いてもみても、ただただ虚しい。

虚しく虚しい、虚しさに満ちた人生だ。

 

あなたの翼に乗ってわたしも天高く飛んでみたかった。

わたしの重みであなたは飛べなくなった。

78

サルトルは言った。

「実存は本質に先立つ」

ひとは何にでもなれるし、何になってもかまわないのだ。

 

僧侶の資格を取ろうと思ったのにはいくつか理由がある。

ひとつは、物質的豊かさが手に入らないと諦めたから。

せめて精神的豊かさを手に入れたい、という下心。

手の届かない柿に「渋いに決まってる」と悪態をつく蟹の気持ちに似ている。

 

もうひとつは、新しく打ち込む何かが欲しかったから。

というよりも「打ち込んでいる」状態に甘んじたかったから。

手持ち無沙汰でヌルヌルと過ごしていることが何よりも怖いのかもしれない。

せめて何かに打ち込んでいるふりをして、自分はたしかに命を燃焼して生きているのだと思い込みたいのだろう。

そんなことに使われた仏教への憐れみ。

 

あとは坊主頭にしてみたかったから。

これはラクチン、しばらくこれで。

 

チバユウスケは叫んだ。

「子どもたちは守りたい この子たちは守りたい」

恥ずかしげもなく、世界平和を願える年齢になってきた。

 

終戦から78年。

明るい未来への希望は持ち続けなければならないし、その実現に向けて考えることをやめてはならない。

自分のためではなく、明日の子どもたちのために。

 

自己を脱中心化していくこと。

縁起に生かされ、縁起に終わる。

桃の香ただよい、騒音を聞きながら眠る心のしずかさ。

 

夜風の通り道にふわふわ浮かんでいると、自分が自分でなくなってくる。

世界の中心からズレた場所であなたを想う。

たとえば田舎道、2時間バスが来なくても、ふたりならずっと退屈しない。

 

あなたはいつも、ここではないどこかへ行きたがる。

わたしはいつも、自分ではないだれかになりたがる。

月にタッチして帰ってきたら、あなたが隣にいてほしい。

synopsis

いままさに飛行機が墜落しようとしている。

覚悟した男は紙とペンをとった。

殴り書きのようになにかを書きつけ、それを飲み込んだ。

 

飛行機は墜落した。

瓦礫の中から発見された男の遺体。

口の中に紙切れのようなものが見える。

そこには3つの女性の名が書かれていた。

 

とある女流作家が現場を訪れる。

警察の知り合いから風変わりな紙切れの話を聞く。

作家はその3人の女性たちを探しあてたいと思う。

 

取材が始まった。

作家は男の足跡をたどり、3人の女性たちへのアプローチを模索する。

職場の同僚、残された家族、地元の友人たちに会いに行く。

しかし、3人の女性たちのことを尋ねてみても、みな一様に首をかしげる

出てくるのは違う名前の女性たちばかりである。

 

男にはこれといった異性の友人はいなかった。

すぐに恋人になってしまうからである。

 

男はその短い生涯で多くの女たちを愛した。

千差万別、あらゆるタイプの女性が男の人生を彩った。

そのうちの何人かには会うことができ、男との関係を聞くことができた。

ほかの何人かには会うことができず、電話口で「あの男の話はしないで」と悪態をつかれた。

 

作家はなかなか3人の女性たちにたどりつくことができない。

3つの名前は男が本気で愛した女たちのものなのか。

捜索が暗礁に乗り上げてから数日後、事態は進展する。

 

密輸事件である女が捕まった。

ニュースで流れたその名前に見覚えのあった作家はやっと足がかりを見つける。

面会を申し込み、男のことを尋ねる。

かつて同じ犯罪グループにいたことがあり、男とは兄妹のように息が合ったという。

殺し以外の犯罪はすべてやった、と女は言った。

グループのブレーンとして、知的な計画を練る男に女はほのかな想いを抱いていた。

しかしある日、男は忽然と姿を消した。

だれも男のその後を知る者はいなかった。

 

ふたりめの女はすでに亡くなっていた。

双子の妹のアパートを訪ねた作家は、そのあまりの美貌ぶりに狼狽えた。

すぐ後ろに10歳ぐらいの男の子がおびえた顔を覗かせている。

姉は男と5年ほど一緒に暮らした、と妹は言った。

暮らし始めてすぐに男の子が生まれた。

仕事が忙しい女に変わって家事は男がすべて担っていたという。

一人息子を残して、女は自動車事故で亡くなった。

不倫相手の運転する車の助手席で、即死だった。

 

最後の女は、意外な場所で見つかった。

(no idea...)

 

女たちの話から、男のさまざまな人格が見える。

人はみななんらかの意味で多重人格である。

ときに優しくときに激しく。

Adieu tristesse

La lumière s'éteint.

L'obscurité envahit mes poumons.

Je ne peux pas respirer.

 

D'où venons-nous ?

Que sommes-nous ?

Où allons-nous ?

 

Elle s'est enfuie.

Puisque j'ai dit que je l'aime.

Je savais tout, tout, tout.


Les larmes tombent profondément dans le sol.

Puis s'évaporent haut dans le ciel.

 

Je marche sans jambes.

Je mange sans langue.

Je parle sans mots.

 

Je jette la tristesse dans le ciel.

Comme si c'était une étincelle.

Je me souviens de tout ,tout, tout.

 

La taupe a plongé dans le sol.

Parce qu'elle aspirait autrefois au soleil.

Profonde, profonde, profonde tristesse.

Je ferme les yeux.

La nuit viendra à nouveau.

ママと娼婦

映画だけが人生か。

否。

断じて否である。

 

彼にとって映画を撮ることは生きることと同義であった。

身の回りの人物や出来事をドキュメンタリーでありのままに記録し続け、いくつかは身を切るようなフィクションに転化させもした。

恋人との電話口での会話を録音し、それを元に脚本を書いた。

役者には一言一句アドリブを許さず、脚本とまったく同じ通りにセリフを読ませた。

自分たちの親密な会話が映画で再現されていることを知った元恋人は自殺した。

 

彼の人生は映画そのものであった。

いわば実人生の脚本を元に映画の脚本を書いた彼は、挙句「映画はいつか終わるもの」という諦めにも似たハードボイルドさを湛えた銃声一発でこの世を去る。

なぜ。

アパルトマンの一室で行われたその一部始終は、自ら設えたビデオカメラに収められ、ドアにはこんな貼り紙があったという。

「死者を起こすにはノックすること。返事がなければそれは死んでいるからです」

 

われわれにはもっと多くの悲しみが必要なのかもしれない。

悲しみの果てに何が待つのか。

そこでようやく人は誰かを愛せるのか。

まだまだ足りないのではないか。

深い、深い、深い悲しみが。

 

シネフィル的妄執の極言である「映画が人生」という言葉には、どこか青春の蹉跌の青臭さが残るものの、それを厚顔に呻き続けることはなお許されている。

だがしかし、人生を映画だけにしてはならない。

われわれは生きねばならない。

隣人を愛し、そして彼らに愛されること。

 

彼は撮り続けなければならなかったのだ。

ただ、生きること。

生き続けること。

彼のあまりに映画的な瑕疵はそこにある。

 

「人生はお祭りだ、一緒に生きよう」


われわれはなぜ映画を観るのか。

自分とは違う世界に住む人々の物語を映画の中で観る。

同じような人生を送りたい。

同じような場所に行ってみたい。

そんな人を愛したい。

そんな人に愛されたい。

 

ただ、映画はそれだけではない。

もっと根源的で、しかし切実な何かがある。

映画が終わり、次第に明るくなる場内で、ふと隣の人に微笑みかけたくなるような瞬間をわれわれはどう捉えるべきなのだろう。

 

映画は想像力から生まれる。

想像力とは他人を思いやる気持ちではなかったか。

もし世界の中心が愛であるならば、映画は今もなおその場所から生まれつつあるのだ。

この単純な事実。

結晶化された夢。

 

だが何度でも言おう。

映画は断じて人生ではない。

現在でもなく過去でもない。

どこにも真実はない。

 

映画の本質とは、死を生きなおすこと。

死者を讃えること。

今を想うこと。

畢竟、われわれが映画を観る理由はこれに尽きるのではないか。

 

何は無くとも、アカルイミライなどなくとも、ただ生まれ出づる悩みを抱えたまま、はしゃいではしゃいで、この一瞬に命を燃やそう。

一緒に生きよう。

から騒ぎの季節を。

お祭りでしかない人生を。

 

「この世界はどうやって回ってるか知ってるか? 優しさだよ」

Flower

I feel lonely surrounded by the people I love.

There is no ground where I breathe.

Just I said, Oh flower!

 

After taking a shower, I walked in the sky like a spider.

Can I call you tonight to say nothing?

 

I need more seeds and bulbs in my room.

But there is no sun, no rain nor air.

Just I said, Ah Liar!

 

Without saying you love me, you left me like a phantom.

Which is heavier, what I got or what I lost?

 

Come to me whenever you want.

I will go wherever you sleep.

Just say goodnight for a long goodbye.

骨折日記

2023年3月19日、失踪した37歳男性の賃貸マンションでふたつの手記が発見された。

どちらも筆跡は男性のものと見られ、日付は5年前となっている。

当時、男性がスケートボードで転び、右足を骨折した模様を綴った日記のようなものだろう。

ここにその全貌を記す。

 

第一の手記

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2017年9月19日(火)
本当に困った時には、意外と他人に頼れない。誰かに頼み事をする場合、人はそこまで困っていないのかもしれない。生き方を見直そう。自業自得。これまでウワベだけの薄っぺらい人間関係を築いてきたバチが当たったのだ。

 

2017年9月20日(水)
9歳の時に虫垂炎で入院し全身麻酔で手術した。23年ぶりの入院と全身麻酔と手術ということになる。剣道の練習に行くのが嫌で、よく仮病を使っていたことを思い出した。ある日、本当にお腹が痛くなって母親に伝えると、我慢して行きなさい、と取り合ってもらえない。我慢に我慢を重ね、やはりこの痛みは何かあると数日後に病院に連れていってもらうと、便が石化して腸を塞いでいるとの医師の診断。薬では散らせない状態まで悪化しているので手術が必要、と聞いた時の絶望は忘れられない。西日の当たる居間で、母親の膝にすがりつきながら、世界の終わりのように泣いたことを覚えている。

 

2017年9月21日(木)
手術は全身麻酔。目が覚めたら終わっていた。尿道の管が痛い。頼んですぐに抜いてもらう。抜くときも抜いてからも痛い。傷がついたのか、おしっこをしても痛い。まだ腫れはひかない。痛みはだいぶマシ。家族のありがたみを痛感する。父母の言葉が痛い。情けなくて涙が出る。その夜、家族が全員揃った幸福な夢を見た。夏の夜、お寺の横の長い下り坂。星空に投げたマイクを順番に掴んで、聞こえてきたメロディにのせて歌う。星空のイントロドン。シュールだがとてもロマンチック。とても温かく、とてもこの世のものとは思えない気持ちになった。このまま死んでも幸せかもしれないと思ってしまうほどだった。

 

2017年9月22日(金)
看護師さんがガサツすぎて笑える。車椅子に載せた脚をベッドにぶつけたり。点滴の管をむやみに引っ張ったり。冷却用の氷を手術跡に落としたり。ひとりじゃなく、複数人にされてるのがさらに笑える。この程度の怪我でよかったのだと思おう。このまま調子に乗り続けていたらもっと大ごとになっていたかもしれないのだから。もう32なんだから。いつまでも若い気でいるな、という天にいるだれかさんの戒めだ。お風呂に入りたい。

 

2017年9月23日(土)
同室の吉田さんはスキンヘッドの74歳、大工の棟梁。独り言が多く声も大きい。名物患者のようで看護師さんにも大人気。ま、ここの看護師さんは誰に対してもフランクなんだけど。お昼頃、買ってきたDVDプレイヤーの調子が悪く、映像が映らないと販売店に電話を入れる吉田さん。個人情報をベラベラと大声で読み上げる胆力の持ち主。なんとフルネームが、吉田茂さん。読んでいた本に唾がかかるほど吹き出してしまった。同じく同室の桜井さんは大柄の75歳。いつもご家族の皆さんがお見舞いに来て賑やかだ。奥さんとの会話が夫婦漫才みたいで面白い。カーテン越しに大助花子を想像している。息子さんお孫さんたちも仲がよさそうで「THE しあわせ家族」といった感じ。もう一人の同室の川原さんは年齢不詳だが80代ぐらい。病室から出るときはいつもハットをかぶっているオシャレさん。若い看護婦さんが大好きで、お気に入りの子には毎回アメちゃんをプレゼント。隣のカーテン開けて俺にもくれよ。

 

2017年9月24日(日)
あっちゃんが見舞いに来てくれる。岡田先生の新刊『映画とキリスト』を差し入れにもらう。武田百合子『あの頃』が読み終わりそうだったので大変ありがたい。いいやつだ。夜には高地さんとおいちゃんが西宮からわざわざ来てくれる。リクエストのいりことウェットティッシュとシャンプーを持って。面会時間ギリギリだったけど、ありがたい。いつものノリで喋れるのが嬉しい。人はしゃべることで人格が形成されていくのかもしれない。自分の口からでた言葉を自分の耳で聞きながら。言葉に導かれるように、逐一、舵を切り直しながら。

 

2017年9月25日(月)
入院してから初お風呂。6日ぶり。生き返る。同室の吉田茂さんと相席シャワー。色々話してると悪い人じゃないみたい。頑固そうだけど。なんにせよ、体の垢という垢を落とせて気持ちがいい。人間てアブラでできてるんだな。超音波治療器が届いたので説明を受けたのち、早速。何か刺激があるわけでもなくただ当てているだけなので、効果は実感できないが、4割ほど治癒までの期間が短縮されるそう。10月から始まる専門学校の授業に間に合うか。天王寺までどうやって行くか。這ってでも行くのだ。

 

2017年9月26日(火)
入院してから1週間。長いようなあっという間のような。今日から松葉杖。リハビリで久保先生に脚の曲がり具合を見てもらう。思っていたよりも曲がるし、思っていたほど痛くない。車椅子では入っていけなかった1階の売店に行ってみる。特にめぼしいものはなし。文庫本コーナーに小石先生のお友達の方の新書『バッタを倒しにアフリカへ』を発見。岡田先生の本を読み終わったら買おう。京大ばっかりやん。

 

2017年9月27日(水)
吉田さんが2階の病棟へお引越し。昨日の夜も遅くまで準備でドタバタがっしゃんとしていた。川原さんも桜井さんも「やかましいおっさん」がいなくなって清々した、みたいなことを言っていたけれど、どこか寂しそう。日に日に脚の痛みも腫れも引いてきている。人間の治癒力すさまじ。リハビリは久保先生で固定された。若めの兄ちゃんだけど、信頼できそうだ。曲げたり伸ばしたり。足の指だけで床に敷いたタオルをたぐったり。うつ伏せになっても痛くないこともわかった。もう普通に生活できると思う。(まだつけれないけど)地に足つけて、一歩ずつ、地道に、調子にのらず、誠実に。ここからすべてが好転していくと信じて。松葉杖といっしょに、どこまでも。

 

2017年9月28日(木)
レントゲンを撮る。技師の先生も31歳の時にスケボーで足首を骨折したそう。いわく「なんか、スケボーだけ離れていっちゃったんすよねー」、「あ、まさにそれです。まったく同じです」と意気投合。リハビリは今日だけ違う先生。先生によってメニューが違うのはいいのかしら。マッサージが気持ち良かった。だいぶ筋も伸びるようになってきた。売店でメロンパンと『バッタを倒しにアフリカへ』を購入。表紙からして面白い。まだ37歳だって。いやんなっちゃうなあ、もう。岡田先生の本ももうすぐ読み終わるが、あまりの知的レベルの差に、そりゃま、比べるのがおこがましいのだけれど、少し、いやだいぶ敗北感を味わわされた。西洋美術の専門家にこんな映画の本を出されては。俺たちの映画を取らないでくれよ。明日、抜糸で、明後日、退院できるそう。早くお家に帰りたい。

 

2017年9月29日(金)
谷口さんと中根さんがケンタッキーを持って見舞いに来てくれる。長らく借りっぱなしだった視察証とサンプルDVDを手渡し、代理返却をお願いする。最近あったシネマのおもしろ事件与太話を聞く。4階の談話室でしゃべっていたらちょうど昼時になってしまい、入院患者がぞろぞろと集まってきたのでそそくさと退散。ケンタッキーで膨れたお腹にさらに昼食を放り込んでリハビリ、久保先生。日毎に脚の曲がりがよくなってきている。あとはむくみが取れれば。階段の上り下りなども練習。夕方、父親が来て明日の退院の時間などを打ち合わせ。そのタイミングで梶川ドクターが抜糸に。糸ではなくてホッチキスみたいなもので、抜くとき少しチクっとした。夕方もう一度リハビリで外へ。坂道の上り下り、すんごいしんどくて汗だくになる。火曜日はたして天王寺までたどり着けるか。とにかくやってみるしかない。どきなてめーら、ここが先頭。周回遅れは蹴散らすぜ。バーイ。

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第二の手記

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骨折日記① 2017年10月15日(日)

9月19日火曜日。今日は休みだ。仕事もない。早起きなんかしなくてもいい。とは思いつつ、9時頃にのそのそと起き出して、京都シネマから借りてきていた『歓びのトスカーナ』のサンプルDVDを観る。ヴァレリア・ブルーニ・テデスキの過剰な演技に生温かい視線を投げかけ、洗濯機を回す。天気もいいし、午後イチの映画を観た後は、スケボーパークに行ってみよう。という、この思いつきがいけなかった。13:40にTジョイで『ザ・ウォール』を観るためには12:30に家を出ればよい。お昼ご飯にそうめんを作って胃に流し込み、助手席にスケボーとヘルメットを積み込んで出発。いつもとは違う近道の山道を通ろうとして、外環状線六地蔵橋を過ぎたあたりで、右折するために対向車が途切れるのを待っていた。思えばここが運命の別れ道だったのだ。道路の中央で右折のタイミングを待っていると、後続車に左サイドミラーを擦られてしまった。しかし、ほんのかすかに擦れただけだったことと、映画の時間が迫っていたこと、降車して修理代やなんやかや、名刺交換になんやかやがとても鬱陶しく思えたことが重なり、普通なら降りてその後の処理をすべきところを「オールOK、問題なし」の意味を込めたパッシングを2回して、そのまま右折して山道へ入っていってしまった。

----つづく----

 

骨折日記② 2017年10月17日(火)

運命の別れ道を右折した後、置いてきぼりにしてしまった親切ドライバーに一抹の罪悪感を覚えながらも、エレカシをノリノリで熱唱しながら映画館に無事到着。京都シネマで借りてきた視察証でタダ見するにもかかわらず、ちゃっかり駐車料金3時間無料チケットをもらう。こういうガメツさもまた、天にいるだれかさんは気に入らなかったのだろう。『ザ・ウォール』は登場人物3人だけで、画面に映るのはほぼ1人(俳優の名前は忘れたけど素晴らしい!)という眠気誘い度MAX映画なのに、珍しく眠くならなかった。見えない敵の恐怖だけで緊張感を持続させる手腕がお見事。映画の興奮冷めやらぬまま、しかし気持ちはすでにまだ見ぬ憧れのスケボーパークに移っていた。事前に調べておいた住所をカーナビに入力し、いざ上鳥羽の公園へ。ラモーンズを爆音で鳴らしながら気分はやんちゃなスケボーキッズ。川沿いの入り組んだ小道を抜けるとパークが見えてきた。駐車場に車を置いて、右手にボード、左手にヘルメット(スターウォーズドラえもんのシールでデコり済み)、首には有馬温泉のタオルを巻き、ドキドキしながらおずおずと先客の諸先輩方にご挨拶。「あのー、ここ初めてなんですけど、勝手に入って滑っちゃっていいんスかね?」40前後のいかにも自由人といった風体の温和なナイスガイの兄ちゃんがしばらく目をパチクリさせた後、優しく「ええ、どうぞ」と言ってくれた。

----あぁ、余白がない。つづく----

 

骨折日記③ 2017年10月22日(日)

アラフォーナイスガイからふわっとした入場許可をもらい、パーク内に足を踏み入れると5人ほど先客がいた。1人は10代の半グレ少年風で、YouTubeによく動画が上がっているトリックを涼しい顔でキメていて超カッコよかった。茶髪と青髪(!)のこれまた学校や教師に文句がありそうな10代の少年2人組は見たところ素人で、派手な見た目とは裏腹にキャッキャしながら楽しそうに滑っていた。もう1組は30代前半のガタイのいいお父さんと、上から下までプロテクターで完全防備した5歳ぐらいの男の子の親子で、フェンス越しに麦わら帽子のお母さんが微笑ましそうに彼らを眺めていた。スケボーパークは、当たり前だが、コンクリートで造られていて、転んでも痛くなさそうな場所などなかった(スキー場なら新雪が積もっているとこへわざわざ転びに行くでしょう?)。小さな人工池から水を抜き去った形といえばいいか、アメリカのホームドラマでおデブちゃんがすくって食べてるバケツアイスの形といえばいいか。こんなメルヘンな形容が思い浮かぶほど、その時の僕は頭ん中お花畑メルヘン野郎だった。そもそも、この時点で完全コンクリパーク初参戦への緊張感とか恐怖感といったものを少しでも感じていれば、のちの悲劇は起こらなかったかもしれない。嗚呼、メルヘンの馬鹿。とはいえ、新参者としての謙虚さからか、はたまた生来の奥ゆかしさからか、急斜面のランプには入っていかず、まずは端っこの平なところでクニクニとウォーミングアップを始めたのだった。

----なかなか折れない。つづく----

 

骨折日記④ 2017年10月30日(月)

パークの端のなだらかな場所で、このスケートボードをくれたアキフミに教わった、板を左右に振りながら前に進む技やつま先側の板を少し持ち上げてちょっとした段差を越える技の練習をした。9月も半ばを過ぎ、日ごとに秋めいてきたとはいえ、まだまだ少し動いただけでTシャツの背中にじんわり汗をかくほどだった。しばらく技の練習やちょっとした斜面を滑り降りて風をあつめて嬉しがった後(もちろんはっぴぃえんどからは程遠い結末を迎えることになるのだが)、フェンスにもたれかかってボードとシールまみれのヘルメットを眺めながら休憩していると、ふとアキフミにこのパークの雰囲気を写メで伝えてあげようと思った。そもそも私こと、骨折クソ野郎はそのアキフミに触発されてスケボーを始めたのだった。アキフミとの出会いは今からちょうど6年前(虎舞竜より5年も前!)、2011年9月のことだった。

----あぁ、回想シーンに入っちゃったからまだまだ折れない。つづく!----

 

骨折日記⑤ 2017年11月6日(月)

スケボーをプレゼントしてくれたアキフミと出会ったのは2011年、初秋のパリだった。字面だけ見れば、映画のワンシーンのような洒落た出会いを想像するかもしれないが、そこにはエッフェル塔凱旋門も登場しない。なんのことはない、パリ10区の小汚い中華料理屋での庶民じみた出会いであった。共通の知人リョウ君を介して出会った僕たちは、油でベトついたテーブルを囲み、たらふく餃子を食べ、たらふく青島ビールを流し込んだ。ポツリポツリとお互いのことを話し始め、相手との距離を探っていた時間も束の間、酒の力も借りて、店を出る時には肩を組んで下の名前で呼び合っていた。会計をする時になって財布を覗き込んだアキフミは、ハッとしてこう言った。「あのさ、悪いんだけど、金貸してくんない?」日本の服飾専門学校の留学プログラムでパリに来て、そのままパターンナーの職を見つけたアキフミは、当時すでにフランス在住7年のベテランだった。パリコレ常連デザイナーの片腕としてパターンを引いている日本人なんてカッケーなと思っていた矢先のこの「金貸せ」発言。いくら意気投合したからって初対面の奴に金借りるかね、と思ったが、まぁ悪い奴じゃなさそうだし大丈夫だろう。

----楽しくなってきた!つづく!----

 

骨折日記⑥ 2017年11月13日(月)

初対面の男に20ユーロを貸した男と初対面の男に20ユーロを借りた男が、ともにこのおかしな状況を楽しんでいるかのように、少しふらつきながらも肩を組んで陽気にメトロの方へ歩いていた。夜のベルヴィルはピンクや青のネオンに彩られ、多国籍な匂いが充満していて、およそガイドブックには載りそうもないパリの裏の顔を見せていた。私の記憶が確かなら(鹿賀丈史)、この時ちょうど『ベルヴィル・トーキョー』という映画が公開されていて、デジタルサイネージにそのポスターが映し出されていたように思う(監督のエリーズ・ジラールの最新作『静かなふたり』は傑作!)。メトロの駅でまた近々会おうと約束し、「テメー、次会った時にちゃんと金返せよ、コノヤロー」「わぁーってるよ、クソ坊主」という北野武的な、あまりに北野武的なセリフをやりとりして僕らは別れた。翌日の晩、アキフミから電話があり、「タカノリん家でこれから飲もうよ。いいワインもらったんだ」という押し付けがましい一方的な提案をため息一つと諦めの微笑で了承した。数十分後、屋根裏11㎡の狭い狭い我が家の玄関口に、左手に20ユーロ、右手には赤白1本ずつのワインを器用に挟んで持った26歳の天才パターンナーが立っていた。私たちの友情がここから始まり、この6年後、2人の友情にヒビが入ることはなく、ただ私の右足にだけヒビが入ることになろうとは、この時はまだ知る由もなかった。

----そういえば、これは僕の骨折に関する物語だった。次回こそ折れる!はず----

 

骨折日記⑦ 2017年11月21日(火)

大変なことを思い出した。これは僕の骨折に関する物語だった(窪塚洋介)。長く遠回りをしてアキフミのことを紹介してきたが、このへんでそろそろスケボーパークへ再度カットバックしよう。と、見せて(桜木花道)、もう少しだけ寄り道。ごめん、もうすぐ折れるから。ここで話は360度変わってまた元に戻るのだけれど、アキフミは今年結婚した。お相手は、同い年のウェディングドレス会社の社長さんで、その名もほーちゃん。2人の出会いは出会い系、もといマッチングサイトでの十数年ぶりの再会であったという。アキフミとほーちゃんはその昔、同じ服飾専門学校で学んでいて、ほんのりとした知り合いだった。再会後、すぐに付き合い始めた2人は順調に愛を育み、ほーちゃんのお腹には新たな生命が宿り、今年の7月に急いで結婚式を挙げた。「余興で歌ってくれよ」電話でそう頼まれたのは今年の4月だった。奴の話はいつも唐突だ。「いや無理だよ。そんな人前で」冷静に返すもアキフミもひかず、「歌え」「歌わん」の押し問答の末、「わかったよ。じゃあ2人のムービーを撮ってそれのBGMとして歌ってやるよ」と結局こっちが折れた(骨ではない)。奥さんのほーちゃんにはまだ結婚の話になる前に2度ほど会っていて、最初に会ったのは去年の10月だったと思う。アキフミとアキフミのお兄さんが2人で始めた humis というブランドの展示会にお呼ばれした際、アキフミが新しい彼女を紹介してくれたのだ。ほーちゃんは親友のアキちゃんを連れて来ていて、展示会後に4人で飲みに行った。全員同い年ということもあり、レモンチューハイ越しにすぐ仲良くなったアラサー男女たちは……。

----登場人物がさらに増えてきた!つづく!----

 

骨折日記⑧ 2017年11月27日(月)

アキフミ、ほーちゃん、アキちゃんと生しぼりレモンチューハイの有名なお店で乾杯し、テーブルの上にしぼり終えたレモンの皮が高く積まれていくにつれ、4人の仲も深まっていった。ほーちゃんは自身のブランドを切り盛りするバリバリの女社長という、たいそうな肩書にも関わらず、おっとりとしていて優しく、男2人のくだらない話を隣でニコニコ聞いてくれていた。そんなほーちゃんの親友であるアキちゃんも大変によくできた女性で、エキゾチックな顔立ちに似合わない天然ボケっぷりを垣間見せてくれたりで、僕は一気にこの2人が好きになった。あとから聞いた話では、アキフミとほーちゃんは長らく恋人のいない僕とこのアキちゃんをくっつけようと画策していたらしいのだが、当の2人は「我ら関せず」でグラスをガチャガチャと交わし合っていた。白状すれば、そりゃあ僕だって初めて会う女性に何かしらの想像(妄想)を働かせないわけではない。メチャクチャ好みの子が来たらどうしようとか、「親友の彼女の親友」が彼女になるってのはよくある話じゃないかとか、そういう類のかわいいフラッシュフォワードはあったにせよ、ひと目会った瞬間、僕たちは「友人」として付き合っていけそうだと直感的に思ったのだろう(もちろんアキちゃんはどうだったのかは知らないが)。ちなみに、最近できたアキちゃんの彼氏は「タカノリ」君というらしい。なんか笑えるが、人生とはそういうものだ(カート・ヴォネガット)。そんな愛すべき彼らのために一肌脱ぐ気になった。歌ってやる!ムービーを撮って映画っぽく編集してやる!そして、この結婚式での暴れっぷりのお礼にアキフミは僕にスケボーをプレゼントしてくれたのだった。

----つづく!----

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奇妙なことに、第二の手記はここで唐突に終わっている。

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