サルトルは言った。
「実存は本質に先立つ」
ひとは何にでもなれるし、何になってもかまわないのだ。
僧侶の資格を取ろうと思ったのにはいくつか理由がある。
ひとつは、物質的豊かさが手に入らないと諦めたから。
せめて精神的豊かさを手に入れたい、という下心。
手の届かない柿に「渋いに決まってる」と悪態をつく蟹の気持ちに似ている。
もうひとつは、新しく打ち込む何かが欲しかったから。
というよりも「打ち込んでいる」状態に甘んじたかったから。
手持ち無沙汰でヌルヌルと過ごしていることが何よりも怖いのかもしれない。
せめて何かに打ち込んでいるふりをして、自分はたしかに命を燃焼して生きているのだと思い込みたいのだろう。
そんなことに使われた仏教への憐れみ。
あとは坊主頭にしてみたかったから。
これはラクチン、しばらくこれで。
チバユウスケは叫んだ。
「子どもたちは守りたい この子たちは守りたい」
恥ずかしげもなく、世界平和を願える年齢になってきた。
終戦から78年。
明るい未来への希望は持ち続けなければならないし、その実現に向けて考えることをやめてはならない。
自分のためではなく、明日の子どもたちのために。
自己を脱中心化していくこと。
縁起に生かされ、縁起に終わる。
桃の香ただよい、騒音を聞きながら眠る心のしずかさ。
夜風の通り道にふわふわ浮かんでいると、自分が自分でなくなってくる。
世界の中心からズレた場所であなたを想う。
たとえば田舎道、2時間バスが来なくても、ふたりならずっと退屈しない。
あなたはいつも、ここではないどこかへ行きたがる。
わたしはいつも、自分ではないだれかになりたがる。
月にタッチして帰ってきたら、あなたが隣にいてほしい。