ママと娼婦

映画だけが人生か。

否。

断じて否である。

 

彼にとって映画を撮ることは生きることと同義であった。

身の回りの人物や出来事をドキュメンタリーでありのままに記録し続け、いくつかは身を切るようなフィクションに転化させもした。

恋人との電話口での会話を録音し、それを元に脚本を書いた。

役者には一言一句アドリブを許さず、脚本とまったく同じ通りにセリフを読ませた。

自分たちの親密な会話が映画で再現されていることを知った元恋人は自殺した。

 

彼の人生は映画そのものであった。

いわば実人生の脚本を元に映画の脚本を書いた彼は、挙句「映画はいつか終わるもの」という諦めにも似たハードボイルドさを湛えた銃声一発でこの世を去る。

なぜ。

アパルトマンの一室で行われたその一部始終は、自ら設えたビデオカメラに収められ、ドアにはこんな貼り紙があったという。

「死者を起こすにはノックすること。返事がなければそれは死んでいるからです」

 

われわれにはもっと多くの悲しみが必要なのかもしれない。

悲しみの果てに何が待つのか。

そこでようやく人は誰かを愛せるのか。

まだまだ足りないのではないか。

深い、深い、深い悲しみが。

 

シネフィル的妄執の極言である「映画が人生」という言葉には、どこか青春の蹉跌の青臭さが残るものの、それを厚顔に呻き続けることはなお許されている。

だがしかし、人生を映画だけにしてはならない。

われわれは生きねばならない。

隣人を愛し、そして彼らに愛されること。

 

彼は撮り続けなければならなかったのだ。

ただ、生きること。

生き続けること。

彼のあまりに映画的な瑕疵はそこにある。

 

「人生はお祭りだ、一緒に生きよう」


われわれはなぜ映画を観るのか。

自分とは違う世界に住む人々の物語を映画の中で観る。

同じような人生を送りたい。

同じような場所に行ってみたい。

そんな人を愛したい。

そんな人に愛されたい。

 

ただ、映画はそれだけではない。

もっと根源的で、しかし切実な何かがある。

映画が終わり、次第に明るくなる場内で、ふと隣の人に微笑みかけたくなるような瞬間をわれわれはどう捉えるべきなのだろう。

 

映画は想像力から生まれる。

想像力とは他人を思いやる気持ちではなかったか。

もし世界の中心が愛であるならば、映画は今もなおその場所から生まれつつあるのだ。

この単純な事実。

結晶化された夢。

 

だが何度でも言おう。

映画は断じて人生ではない。

現在でもなく過去でもない。

どこにも真実はない。

 

映画の本質とは、死を生きなおすこと。

死者を讃えること。

今を想うこと。

畢竟、われわれが映画を観る理由はこれに尽きるのではないか。

 

何は無くとも、アカルイミライなどなくとも、ただ生まれ出づる悩みを抱えたまま、はしゃいではしゃいで、この一瞬に命を燃やそう。

一緒に生きよう。

から騒ぎの季節を。

お祭りでしかない人生を。

 

「この世界はどうやって回ってるか知ってるか? 優しさだよ」