映画

映画に狂ったきっかけはなんだろう。

私にとって映画が宗教になったとき。

原体験は高校1年の頃だっただろうか。

 

中学までは人口5千人ほどのひなびた山村に暮らし、田んぼと畑とヤンキーばかりの生活にずっと退屈していた。

鬱屈とした毎日から逃れる手立ては、都会へ進学するしかなかった。

幸運にも勉強は得意だったので、広島市内の高校を選んで越境入学した。

 

早朝の通学は大変だったが、車窓から遠ざかる野山を後目に英単語帳をめくる自らの姿をいくぶん誇らしく思っていた。

黴くさい田舎を離れて洗練された都会へ近づいていく高揚感は、恋の憧れにも似た感覚ではなかったか。

いずれにしても、目の前を覆っていた霧が次第に晴れわたり、停滞していた人生がようやく転がり始めたのだ。

 

高校の友人たちは街中での遊びをたくさん知っていた。

もちろん、カラオケ、ボーリング、ゲームセンター、ビリヤードなど可愛らしいものばかりだったが、私にとってはすべてが新鮮で、よちよち歩きを始めた赤ん坊のように、この世界の魅力をあらたに発見し始めていた。

 

なかでも、映画は格別だった。

映画館で初めて見た映画は『スパイダーマン』か『ハルク』だったと思う。

映画好きの友人にチケットの買い方を教えてもらい、なけなしのお小遣いでポップコーンも買った。

私にもたらされた映画の天啓が、まずもって赤い蜘蛛男か緑の筋肉男によってであったとは、なんだか愉快である。

 

とはいえ、貧乏高校生にとって映画館はまだまだ遠い存在だった。

映画を見る手段といえば、たいていレンタルビデオと衛星放送だった。

最初にレンタルビデオ屋で借りたのはたしか『スター・ウォーズ』で、帰宅するなり部屋のカーテンを閉め切って見た。

20インチほどの小さなテレビ画面で、はるか彼方の銀河の壮大な冒険譚に心躍らせていたことを思えば、今やなんと贅沢になったものか。

 

映画好きのクラスメイトとはよく、映画を録画したビデオテープの貸し借りをしていた。

WOWOWで放映された番組を、2時間テープに3倍モードで録画した。

1本のビデオテープに3本の映画を詰めて、友達同士でまわし読みならぬ「まわし見」をしていたのだ。

その頃、ジョニー・デップが出ている映画はすべて見たと思う。

ウディ・アレンの映画も大好きだった。

 

高校3年次の進路相談では、映画関係の大学に行きたいとは言い出せなかった。

そもそも学問として映画が学べることを知らなかったし、そんなことだれも教えてくれなかった。

父にはよく「映画なんて趣味でもできる」と諭された。

 

その後、ひょんなことから大学でフランス文学を学び、ひょんなことからヌーヴェル・ヴァーグ映画の研究者になり、ひょんなことからトリュフォーゴダールの講義を受け持つようになった。

 

相変わらず映画は見つづけている。

しかし、この道で食っていけるようになるかはわからない。

それまで続けられるかわからないし、気力と体力も落ちてきた。

 

目の前を覆う霧が、この頃また深くなってきたように感じる。

ふたたび転がり始めるには、丸くならなくてはいけないのだろうか。

いったん映画から離れるべきなのだろうか。

 

そんなことを考えながら今日も私は映画を見る。

なんの役にも立たないけれど、好きだから近くにいたいのである。

まとわりついて、臆面もなく好きだと言える。

これは恋だ。

 

ところで、映画に振り回された人生だった、と言って死ぬのはどうだろう。

墓碑に刻むのはさすがにかっこ悪いか。

はてさて。

私の母は4人の男の子を産み、育てた。

 

京都で父と出会い、結婚し、兄と私を産んだ。

父が広島のお寺を継ぐことになり、一家は京都を離れた。

母は、関西の肝っ玉おかんから広島のお寺の坊守となった。

 

母は少し抜けている。

というか、変わっている。

 

私が6歳ぐらいの秋のある日、お寺に賽銭泥棒が入った。

兄が10歳で、弟は4歳か。

そのとき、私たち兄弟は、兄の友人たちと境内で野球をしていた。

 

大きな灰色のバンが境内に入ってきて、男性がふたり降りてきた。

大柄の方の男性に「お父さんお母さんは?」と聞かれ、兄は恐る恐る「いない」と答えた。

知らない大人が怖かったのか、子どもたちは境内の隣の広場、通称「ゲートボール場」へ移動した。

 

さきほどの闖入者のことなどすっかり忘れて、子どもたちは野球を楽しんだ。

あかね空にカラスが鳴く頃、私たち兄弟は家に帰ってきた。

すると、すでに帰宅していた両親がうわずった声で話している。

私たちを見つけると「子どもたち、ちょっと集合」と父がどこかおどけた調子で言った。

 

「賽銭箱がないんや。知らんか?」

 

顔を見合わせながら、私と弟は兄に頼った。

「さっき、おっきな車、入ってきた」

兄の唾を飲み込む音が聞こえた。

 

「それで?」

父の目は輝きを増した。

 

「怖いから、ゲートボール場、行った」

「おっきな車やった」

「知らん人やった」

口々に状況を説明する兄と私と弟。

 

本堂の縁側の賽銭箱があった場所には、犯人のものと思われる靴跡が残されていた。

母はヒステリックに「警察呼ばな」と叫び、足早に母屋に駆けていった。

 

私たち兄弟は他人事のようにはしゃいだ。

「うちにケーサツが来るなんて」と、まるでスペクタクルショウでも始まるものと目を輝かせて待っていた。

おぼろげな記憶ながら、いったんキレイな服に着替えさえしたのではなかったか。

 

数十分後、警察が到着し、実況見分が始まった。

私たち兄弟は、柱の陰から息を殺して見守った。

しかし、すぐにお開きになった。

 

「なにも手がかりがないですね」

 

その言葉に驚いた様子の父が言った。

「靴の足跡があったと思うんですが」

 

目をしばたかせる警察官。

「どこですか」

 

賽銭箱があったあたりを覗き込む父と子どもたち。

 

うしろから母がぬっと現れた。

「いやアタシ、警察の方来はるから、綺麗にしとかなアカン思て」

そこでいったん言葉を切った母は、伏し目がちに続けた。

ダスキンかけてしもたわ」

 

母は来年、古希。

「親孝行 したいときには 親はなし」

そんなことにはならないように、とつねづね思っている。

コクトー

2005年12月から2012年3月までほぼ毎日、teacupというブログサイトで日記をつけていた。

年齢で言えば、20歳から26歳までということになる。

 

ブログを始めた次の日、恋人と別れた。

より正確に言えば、別れた恋人と「決定的に」別れた。

別れたあともしばしば連絡を取り合っていた彼女と、それ以来会うのをやめた。

やめざるを得なかった。

相手に新しい恋人ができたのだ。

 

有名な画家の孫であった彼女の部屋には、19歳の誕生日におじいさんからプレゼントされた絵が飾ってあった。

青い絵の具を足の裏で引き伸ばしただけのシンプルなその絵のタイトルは、たしか「蒼波」だったように思う。

白い無地のキャンバスに、真っ青な波が吠えるようにうねっていた。

 

床に無造作に置かれたその絵のまわりには、いつも埃がたまっていた。

彼女はきまって「あれは白波」といたずらっぽく笑った。

西陽さす窓際にふたり寝ころび、永遠の甘美さにひたっていた。

 

ブログを始めた日の晩、彼女にメールした。

返信は、一言。

「彼氏できた」

 

そのブログサイトは最近閉鎖された。

私の記事はすべて消えた。

別のサイトに引越しすることもできたが、しなかった。

傷を癒すかのように書き連ねた日記の、センチメンタルな残響にはうんざりだった。

 

私のトップページには、ジャン・コクトーの言葉が引用されていた。

“Les privilèges de la beauté sont immenses. Ils agissent même sur ceux qui ne la constatent pas.”

「美の特権は絶大である。美を認めない者の上にもその特権は作用する」

 

背伸びしていた過去の自分も、今の自分に地続きで、明日からもこの自分なのだと思うと、幻滅と同時に、愛おしさもまた込み上げてくる。

 

ふと、もう一度書いてみようと思った。

エッセイを通して過去の記憶を辿り、今の自分を措定してみたいのだ。

書くことで何かを生み出したいとも思う。

 

生きた証として。

世界に引っ掻き傷をつけるように。

甘い生活を待ちながら。