剣道

5歳から15歳まで剣道を習っていた。

水曜と土曜の18時から20時まで、町内の有志の先生に稽古をつけてもらっていた。

いわゆる地元のスポーツ少年団というやつだ。

 

なぜ剣道を始めたのかは忘れたが、おそらく父のススメだったのではないか。

父は剣道と弓道を学生時分にやっていて、当時の写真も見せてくれたことがある。

その話を聞いて興味をもち、自らやってみたいと言い出したのか。

30年以上前の感情は、もう覚えていない。

 

ただでさえ地味でマイナーな剣道人口は、私の住む過疎化農村では悲惨なものだった。

習っていた子どもは、幼稚園生から中学生まで全部ひっくるめても、両手と片足で数えられるほどだったと思う。

実際、私と同学年で剣道を習っていた友達はいなかった。

なぜなら、小学校の友達のほとんどは地元のサッカークラブに入ったからだ。

ときはJリーグ発足前夜、だれもかれもがサッカーにお熱だった。

私も然りだったのだが、すでに剣道を習っていたために入れなかった。

サッカークラブも同じ水曜と土曜が練習日だったのだ。

私は剣道を呪った。

 

しかし、剣道の先生は、そんな小規模ショボショボ弱小少年団にはもったいないぐらいのスゴイ人だった。

新幹線の運転士という珍しいお仕事だったはずだが、なんとその先生は段位八段を有する超エリート剣士だったのだ。

そんなバケモノ先生に習い、中学3年まで続けたおかげで、私も二段まではなんとか取れた。

いまだに自己紹介で言っちゃう剣道二段。

スゴそうに聞こえるけどジツは中3で取れることは、あまり言っていない。

 

たいてい中学にあがれば剣道部ぐらいありそうなものだが、私の通う田畑オイモ中学はそもそもの生徒数が少なかったこともあり、部活動は主要な人気スポーツに限られていた。

つまり、野球、サッカー、バスケ、バレー、卓球のみである。

私は中学でバスケを始め、すぐに夢中になった。

 

道場は中学校の体育館の裏手の崖上にあり、水曜18時になると後輩ちびっこ剣士たちのかけ声が聞こえてくる。

中学にあがりたての頃は、18時まで体育館でバスケの練習をし、終われば崖をのぼって道場へ直行し、道着に着替えて20時まで剣道の稽古というタフな生活をしていた。

剣道はそんなに好きでもなかったのに、あのエネルギーはなんだったのだろう。

 

しかし、バスケを始めてしばらく経ってからは、水曜の稽古にはほぼ顔を出さなくなった。

おそらく中1の終わりに英語の塾に通い始めたこともあったのだろう。

バスケをやって剣道をやって塾へ行くのは、さすがにちょっと体力的にきつかったのではないか。

もしくは親が止めたのか。

 

はっきり言って、剣道の稽古は嫌いだった。

夏は暑いし、冬は寒い。

道着は臭いし、防具はなお臭い。

見たいテレビもあった。

ドラゴンボールスラムダンクが見られないことが一番イヤだった。

 

たまに先生の都合で稽古が休みになることがあった。

稽古に行く前、17時30分ぐらいに家で晩ご飯を食べてから行くのだが、ときおりそのタイミングで電話が鳴る。

母の声が一段高くなり「あー先生。はい、わかりました。はい、どうも」と聞こえた時の嬉しさと言ったら。

「今日、剣道休みやって。道着、脱ぎんさい」

露骨に喜んでいる顔を見られるのも気恥ずかしいので、うつむきながら「あー休みなん」とかなんとか言いながら、そそくさと服を着替える。

口元の笑みはご飯を詰め込んで隠した。

 

道場に先生が遅れて来ることもあった。

そうすると、子どもたちはどこからともなくボールを持ってきて、竹刀のバットで野球を始める。

もちろんバレたらシバかれるので、先生が来るまでのわずかな時間、背徳のスリルを目いっぱい楽しむのだ。

道場の足元の小窓から、先生の車の赤いテールランプが見えたらゲームセット。

ボールは秘密の隠し場所へ、竹刀バットは行儀よく小脇に抱え直す。

すりガラス越しの赤いテールランプはさながら警報器のようで、急に慌ただしくなる道場のざわめきもまた楽しかった。

 

またあるときは、19時になっても19時半になっても、とうとう20時になっても先生が現れないことがあった。

おそらく仕事が長引いて、各家庭へ連絡が遅れたのだろう。

いま思えばなんとものどかな時代だが。

19時を過ぎたあたりでその日の完全勝利が高らかに宣言され、道場は子どもたちの楽園となった。

そして、野球にサッカーに、思い思いの遊びに興じる。

だれも自主的に竹刀の素振りをしようとはしなかった。

だれも剣道など好きではなかったのである。

 

そんなにイヤなら「辞めたい」と言えばよかったのに。

あの頃、なににそれほどこだわっていたのだろう。

あるいはなにかに怯えていたのだろうか。

辞めたくても辞められない理由などなかったはずだが。

30年近く前の感情は、やはりもう覚えていない。