連星

パンドラの箱から邪悪なものがドバッと飛び出したあと、箱の底に残ったのは希望だったという。

いまわたしの体からは、ドロドロとした邪悪なものが出まくっている。

毒も油も酒も薬も。

涙も正義も愛も観念も。

 

カントいわく、わたしたちは物自体としての対象を直観することはできない。

目の前にあるものがりんごだと思うのは、わたしたちの目や口や鼻が、りんごの色や味や香りを認識しているに過ぎないのだという。

感覚器官を通して認識できる範囲でりんごを知覚しているのであって、りんごそれ自体の実態には永遠に近づけない。

 

あるいは、ショーペンハウアーの言葉を借りれば、わたしたちの世界認識はすべて表象である。

表象とはイメージのようなもので、「あの娘いまごろ何してるだろ」と頭にポワポワ浮かぶ想像や、鏡に映った自分の醜い反射像などもそう。

そして、表象の裏にある実態、つまりカントが言うところの物自体は、ショーペンハウアーによれば、それは意志である。

しかもそれは、生きようとする盲目的な意志だという。

その意志がさまざまな表象をまとって、わたしたちの目の前に現れている。

頭痛くなってきた。

 

わたしが赤いと思っている色は、あなたにとっても赤い色なのか。

わたしが赤と呼んでいる色は、あなたには「わたしにとっての緑色」に見えているのではないか。

こんなこと、一度は空想したことがあるだろう。

 

あるいは、前を歩いているあの赤の他人は、その角を曲がってわたしの視界から消えても、まだまっすぐ前を向いて歩き続けているだろうか。

みんなわたしの映画の登場人物でしかなく、カメラの画角から外れたら「お疲れしたー」とそそくさと帰っていくのではないか。

これは映画『トゥルーマン・ショー』の中で、ジム・キャリーが苦悩するテーマでもある。

 

わたしとはだれか。

あなたとはだれか。

あなたとわたしはどこまで認識し合うことができるのか。

わたしはあなた自体には永遠に近づけない。

あなたも私の何を知る。

ぐるぐるぐるぐる、回って回って、いっこうに近づけない連星みたい。

知りたいから手を伸ばし、抱きしめたいからサヨナラするのね。

 

阪急西宮北口駅は、京阪神地域では比較的大きめのジャンクションで、神戸本線今津線が通っている。

西北、もしくは北口と略すのが一般的だが、わたしは前者。

ニシキタがキムタクみたいでかっこいいし、西北の南東出口というギャグみたいな待ち合わせ場所もお気に入りだ。

 

今津線宝塚方面の2駅目に甲東園という駅がある。

20歳から22歳まで付き合っていた恋人は、その甲東園に住んでいた。

理系の大学に通う同い年の聡明な女性で、見た目は派手だが芯のある人だった。

と、若干の思い出補正も込めて書いておこう。

同じ学習塾の講師仲間で、キャバ嬢のような金髪に清楚な白衣というアンバランスないでたちが目を引いた。

彼女は生まれも育ちも関西なのに、なぜか標準語でしゃべった。

 

一度、ふたりでご飯に行ったあと、わたしから付き合おうと切り出した。

彼女の顔が曇った。

「話してないことがあるの」

返事は次の日の夜中までおあずけとなった。

よからぬことが起こりそうな気配がぷんぷんと漂っていた。

 

わたしは西北に住んでいたため、お互いの家の間をとって、国道171号線、通称イナイチのいまは亡きTSUTAYAの前で会うことになった。

雪がふりそうな寒い夜だった。

「わたし、Fさんの浮気相手なの」

Fは同じ塾で働くひとつ年上の先輩で、Nという美人の彼女がいた。

わたしとNも同い年で、みんな友達同士だった。

つまり、わたしの想い人は友達の彼氏を寝取っちゃった困ったちゃんだったのだ。

よくある話である。

 

「Fとはもう会わないから、付き合って欲しい」

ガーンと頭を殴られたようで、しばらく何も言えなかった。

そして絞り出すように、白い息で「うん」と答えた。

イナイチ沿いにニシキタの下宿まで歩いて帰り、ベッドの上で泣いている彼女を慰めた。

うすいカーテン越しの月明かりに、彼女の白い肌が銀色に輝いて見えた。

 

後日、Fを塾の校舎裏に呼び出して、そういうことですから、と手短に伝えた。

野球で鍛えたガタイのいい先輩を前に足がすくんだ。

何も悪いことはしていないのだから堂々としていればよかったものを、わたしのチキンハートは踊り出す。

「運動会には来ないでください」と、震えながら言った。

アルバイトの仲間内で球技大会のようなものを企画していて、それがすぐ数日後に迫っていたのだ。

何も知らないNが不憫に思え、Fには何かしら理由をつけて欠席して欲しかった。

いま思えば、逆恨みのような感情も入っていたと思うが、当時のわたしは悪の元凶は彼だという考えに囚われていた。

わたしの恋人も表面上はNと仲良くしていたのだから、その欺瞞も許せなかったはず。

しかし、まだまだウブなわたしは、好きな人を悪の道から救い出す、と鼻息荒くヒロイックに振る舞っていたのだった。

 

結局、運動会はたち消えになった。

わたしたちの関係を知った周りが、いったん保留にしよかー、と気を遣ってくれたのである。

あの頃、みんなどんな気持ちだったんだろう。

我ひとり、嵐を呼ぶ男なり。

 

彼女はやや精神的に不安定なところがあった。

とはいえ、その多くはわたしの気を引くための演技だったように思う。

リストカットの痕を見せられたこともあるが、うすくシワのようなものが見えただけなので、おそらくは自作自演だろう。

もちろん本当のところはわからないし、当時は十分それにビビっていたのも事実である。

 

「別れたら広島のお寺に行って、何も言わずただただ泣いているところをあなたの両親に見つけてもらうわ」と、脅しのようなことを言われたこともあった。

「そうして身分を明かしたあと、あなたとの思い出話をじっくりたっぷり聞かせてあげるの」

まさか冗談と笑い飛ばしたが、どこか本当にやりかねない危うさも秘めていた。

 

わたしの部屋で別れ話をしていたときのこと。

その日、彼女はそっと席を立ち、キッチンの方へ姿を消した。

しばしの静寂のあと、カチッという音が聞こえた。

まさかと思いキッチンへ行ってみると、ガスコンロの前には思いつめたような表情の彼女が立っていた。

泣き腫らした顔でこちらを一瞥し、少しずつコンロのツマミを回してシューシューとガスを漏らし始めた。

泣いているものの、その目は真剣だった。

ガスの匂いが立ち込め始めた小さなキッチン。

この状況は、映画『コントラクト・キラー』で、ガス自殺を図った主人公がガス会社のストのせいで計画を断念するシーンに匹敵するシュールさだ。

これにはどうにも笑ってしまい、別れ話はまたの機会となった。

 

あるいはまた別の日、何度目かの別れ話の際には、ドライヤーのコードを首に巻きつけて、死んでやる、と叫ばれたこともあった。

彼女はエンエン泣いているのに、その光景はどこか滑稽でなおかつチャーミングだった。

悲劇と喜劇の女優のようで、思わず愛しさが溢れた。

少しのユーモアが世界を変える。

そうやって彼女はわたしを引きとめた。

 

立派な女優になれそうな彼女だったが、いまは製薬会社の研究職に就いているそう。

ちゃんとわかり合えていたかは、わからない。

それでも命を燃やして、心をゆらして生きていた。

あの頃の悲劇もいまでは喜劇のように思い出せる。

 

見つめて、手を伸ばし、抱き合って、終わりが来た。

人の心はわからないものだが、これまでもずっとそうだったし、これからもずっとそうだろう。

ぜんぶぜんぶ流れ出たあと、底の底のそのまた底に、きっと希望が残っているのさ。

ブリコラージュ

アーツ・アンド・クラフツ運動の主導者ウィリアム・モリスが言うように、生活の中に芸術は必要だと思う。

モリスの主張とはややニュアンスが違うが、きれいなものに囲まれていた方が生活は整っていくように感じられる。

 

2014年2月、住み慣れた西宮から京都の宇治へ引っ越した。

JR六地蔵駅から歩いて御蔵山をのぼること15分、比較的高級な住宅街に母方の祖父母の家があった。

2011年12月に祖父が亡くなり、すぐに祖母は広島の実家に引き取られたため、その家はしばらく空き家となって放置されていた。

当時の私は、前年までに大学の奨学金をもらい終わり、かといってその後すぐに大学の仕事なぞにありつけるはずもなく、塾講師で小銭を稼ぎながら、いまだその日暮らしの生活を続けていた。

そんなとき、幼い頃の楽しかった「宇治のおばあちゃん家」の記憶がふっと蘇り、移り住んであれこれ手入れをしながら、遺品整理もかねてリフォームしてみようと思い立ったのだ。

六地蔵へ移り住めばもちろん家賃はかからないし、何より庭付き一戸建てに一人暮らしできるなんて夢のようだとワクワクした。

 

その考えは甘かった。

家はゴミ屋敷と化していた。

まず、ものが多い。

祖父の趣味はカメラで、アマチュアというか、セミプロぐらいの写真家だったそうだが、とにかくカメラや三脚やフィルムやアルバムなんかが、大事そうに大量に保管されていた。

その他にも衣類、食器、家具、寝具など、数十年分の生活感がほぼそのまま残っていた。

まずはそれを捨てなければ住むことができない。

比喩ではなく、実際に足の踏み場もなかったのだ。

 

それだけでなく、庭は荒れ果て、トトロの森のように育った植木はお隣さんの庭にまで侵入していた。

とにかく、毎日草を刈り、ゴミ袋に詰め、木を切り、ロープで縛り、ゴミに出し、また草を刈り、ゴミ袋に詰め、、、を延々と繰り返した。

しかも、間が悪いことに、移住した直後の2014年4月から、大学で研究室のアシスタントの仕事を任され、六地蔵から西宮まで、京阪と地下鉄と阪急を乗り継ぎ、毎日2時間半かけて通うことになった。

そのため、家の掃除ができるのは土日のみとなり、すべてが片付いたのは、移り住んで1年半ほど経った頃だった。

 

1階には、6畳2間の和室、台所、トイレ、風呂場があった。

とりあえず寝る場所の確保を、と和室からまず手をつけた。

和室の南側は全面窓ガラスの引戸になっており、縁側の向こうに庭が見渡せた。

日当たり抜群の和室をさらに開放的にするため、6畳2間の襖を取り除き、12畳1間のリビングとした。

家具や寝具などはまだ使えそうなものもあったが、申し訳なく思いながらもほぼすべて粗大ゴミに出した。

けっして趣味がいいとは言えない灰色のカーペットを剥ぐと、半分腐ってしなしなになった畳が現れた。

掃除機をかけたあと、スチームクリーナーで一気に拭き上げる。

しかし、衛生面の不安は拭えず、畳の表面もポロポロと剥がれてくるので、新しくラグを敷いた。

ボロボロの畳を踏まずに済ませるように、6畳をカバーできる大きさのものをふたつ買い揃えた。

 

仮住まいのリビングには、ベッドにソファ、テレビ、書斎机、それから本棚も置くことができた。

元々あった少しだけ趣味のいいガラス棚ふたつと木製の丸いコーヒーテーブルは再利用した。

これで寝る場所と仕事を片付けるスペースは確保できたわけで、とりあえずの生活はできるようになった。

 

次は台所。

私の母は3姉妹で、元々は5人家族の住む家だったため、キッチンも広々としていて、大きなダイニングテーブルが置いてあった。

冷蔵庫も高齢者ふたり暮らしに似つかわしくないほどの大きさで、ありし日の食卓に並ぶはずであったこんにゃくや味噌がそのまま残されていた。

食べられるはずもないので全部捨てる。

全部ぜんぶ、とにかく捨てまくる。

それこそ、モリスのようなボタニカルな壁紙やマットも全部ひっぺがしてゴミに出す。

買い替えたばかりで新品同様だった3口のコンロはよかったが、問題は換気扇。

数十年分の油や埃が真っ黒に固まって、コールタールのような頑固な汚れになっていた。

根気よくスチームで落とし続け、丸一日かかってやっと換気扇が回るようにはなったが、これは日々使いながら手入れして、少しずつ綺麗にしていくしかないといったん諦めた。

 

キッチンが終われば、トイレ、風呂場、廊下をスチームクリーナーで磨き上げた。

スチームクリーナーは優秀だった。

水回りの垢やカビ汚れを落とすのはお手のもので、さらには板張りの廊下にツヤを出してくれる。

いつしか、もとのスチームクリーナーの性能ではもの足りなくなり、大金をはたいてさらに高性能なものに買い替えた。

使わなくなった初代スチーム君は、大学の研究室に持っていき、入学式や卒業式の前など、床をピカピカにするのに役立てた。

その後、研究室に寄付したが、私のあとのアシスタントはだれも使っていないらしい。

 

廊下と台所の床はところどころシロアリにやられ、ベコベコだった。

しかし、直すには時間もお金もかかりそうだったので、その部分はなるべく踏まないように注意だけして、当面ほうっておくことにした。

そういえば一度、巨漢の先輩が遊びに来たとき、説明する間もなくそこを踏まれてしまい、あやうく床が抜けそうになったことがあった。

何事も後回しにするのはよくない、と思いつつも、優先事項はとにかくものを減らすことだった。

 

2階のそれぞれ6〜7畳ずつぐらいの3部屋には、寝室、ウォークインクローゼット、書斎を作った。

2階も大量のゴミ、もとい思い出の品々に埋め尽くされ、写真フィルム、アルバム、カメラ類、娘たちが使っていたと思しき二段ベッドまで、何から何までそのまま残されていた。

もの持ちが良すぎるのも良くない。

祖父は宇治茶の通信販売なんかもやっていたようで、両手でやっと抱えられるぐらいの大きな茶箱や、お茶屋さんに並べればそれなりの格好がつくような小洒落た茶筒が大量にあった。

きれいな茶箱はいくつかインテリア用に確保し、残りはすべて粗大ゴミ置き場へ放り投げる。

ちなみに、宇治市は結構ゴミ出しルールがユルく、燃えるゴミの日に大きな本棚などを出していても、大概は持っていってくれた。

 

2階のゴミ出しも順調に進み、徐々に床が見え出したある雨の日、1階のリビングでくつろいでいると、ポツンポツンと規則的でなんだかイヤな音が聞こえた。

2階のひと部屋が雨漏りしていたのだ。

その部分の天井はもう腐りかけていたので、早急に対処が必要だった。

大工を呼べばよかったのだが、ひとりで直すという使命感とココロオドル冒険心から、なんとか無い知恵を絞って策を講じた。

はじめ、雨漏りの真下に祖父の形見の大きな茶壷を置いて、水琴窟みたいにするのはどうだろうと考えた。

その部屋は書斎にするつもりだったので、水面を叩くキーンとした雨音を聴きながらデスクワークができるなんて、こりゃあ風流だぞと思った。

しかし、キーンどころか、ポチャポチャと締まりのない雨音にしかならなかったことにくわえ、雨漏り箇所が3箇所もあり、茶壺が足りないのでこのアイデアは泣く泣く断念した。

代替案は、布団圧縮袋を切り開いて即席の防水シートを作り、天井に押しピンで留めるという荒技。

しかし、これだけだと雨垂れをうまく排水できないので、さらに改良を加えた。

 

その部屋は祖父が暗室として使っていたので、壁面に大きな現像用の流し台があった。

流し台を例によって暴力的に取っ払ったあとは、排水溝だけが淋しく残っていた。

その穴に洗濯機の排水ホースをつけ、反対側を天井のシートと接続した。

そうすれば、天井から漏れる雨水は、シートで受け止められ、端に設えたホースを伝って排水溝へと流れていく。

なんとも風流からは遠く離れてしまったが、こちらは応急処置としては及第点だった。

 

混沌から秩序が生まれる。

エントロピー増大の法則から言えば、秩序から混沌が生まれるのだから、整理整頓という人間の営みは宇宙の摂理に挑むようなものだ。

しかし、だからこそ美しいのではないか。

混沌=自然を飼い慣らすことから美は生まれるのではないか。

 

そんなこんなで、すべて自分の思い通りに家を作っていく感じが妙に楽しかった。

秘密基地をイチから作り上げていくようなワクワク感というか、窪塚洋介よろしく「我が城」が徐々に築城されていく高揚感というか。

生まれ変わったらインテリアデザイナーか大工さんも悪くないな、とは素人の戯言。

 

その後、2015年5月に祖母が亡くなり、2020年8月に私は大阪へ移り住んだ。

幼少の母が祖父母と暮らし、壮年となった私が6年ほど住んで愛したその家は、いまは更地となっている。

剣道

5歳から15歳まで剣道を習っていた。

水曜と土曜の18時から20時まで、町内の有志の先生に稽古をつけてもらっていた。

いわゆる地元のスポーツ少年団というやつだ。

 

なぜ剣道を始めたのかは忘れたが、おそらく父のススメだったのではないか。

父は剣道と弓道を学生時分にやっていて、当時の写真も見せてくれたことがある。

その話を聞いて興味をもち、自らやってみたいと言い出したのか。

30年以上前の感情は、もう覚えていない。

 

ただでさえ地味でマイナーな剣道人口は、私の住む過疎化農村では悲惨なものだった。

習っていた子どもは、幼稚園生から中学生まで全部ひっくるめても、両手と片足で数えられるほどだったと思う。

実際、私と同学年で剣道を習っていた友達はいなかった。

なぜなら、小学校の友達のほとんどは地元のサッカークラブに入ったからだ。

ときはJリーグ発足前夜、だれもかれもがサッカーにお熱だった。

私も然りだったのだが、すでに剣道を習っていたために入れなかった。

サッカークラブも同じ水曜と土曜が練習日だったのだ。

私は剣道を呪った。

 

しかし、剣道の先生は、そんな小規模ショボショボ弱小少年団にはもったいないぐらいのスゴイ人だった。

新幹線の運転士という珍しいお仕事だったはずだが、なんとその先生は段位八段を有する超エリート剣士だったのだ。

そんなバケモノ先生に習い、中学3年まで続けたおかげで、私も二段まではなんとか取れた。

いまだに自己紹介で言っちゃう剣道二段。

スゴそうに聞こえるけどジツは中3で取れることは、あまり言っていない。

 

たいてい中学にあがれば剣道部ぐらいありそうなものだが、私の通う田畑オイモ中学はそもそもの生徒数が少なかったこともあり、部活動は主要な人気スポーツに限られていた。

つまり、野球、サッカー、バスケ、バレー、卓球のみである。

私は中学でバスケを始め、すぐに夢中になった。

 

道場は中学校の体育館の裏手の崖上にあり、水曜18時になると後輩ちびっこ剣士たちのかけ声が聞こえてくる。

中学にあがりたての頃は、18時まで体育館でバスケの練習をし、終われば崖をのぼって道場へ直行し、道着に着替えて20時まで剣道の稽古というタフな生活をしていた。

剣道はそんなに好きでもなかったのに、あのエネルギーはなんだったのだろう。

 

しかし、バスケを始めてしばらく経ってからは、水曜の稽古にはほぼ顔を出さなくなった。

おそらく中1の終わりに英語の塾に通い始めたこともあったのだろう。

バスケをやって剣道をやって塾へ行くのは、さすがにちょっと体力的にきつかったのではないか。

もしくは親が止めたのか。

 

はっきり言って、剣道の稽古は嫌いだった。

夏は暑いし、冬は寒い。

道着は臭いし、防具はなお臭い。

見たいテレビもあった。

ドラゴンボールスラムダンクが見られないことが一番イヤだった。

 

たまに先生の都合で稽古が休みになることがあった。

稽古に行く前、17時30分ぐらいに家で晩ご飯を食べてから行くのだが、ときおりそのタイミングで電話が鳴る。

母の声が一段高くなり「あー先生。はい、わかりました。はい、どうも」と聞こえた時の嬉しさと言ったら。

「今日、剣道休みやって。道着、脱ぎんさい」

露骨に喜んでいる顔を見られるのも気恥ずかしいので、うつむきながら「あー休みなん」とかなんとか言いながら、そそくさと服を着替える。

口元の笑みはご飯を詰め込んで隠した。

 

道場に先生が遅れて来ることもあった。

そうすると、子どもたちはどこからともなくボールを持ってきて、竹刀のバットで野球を始める。

もちろんバレたらシバかれるので、先生が来るまでのわずかな時間、背徳のスリルを目いっぱい楽しむのだ。

道場の足元の小窓から、先生の車の赤いテールランプが見えたらゲームセット。

ボールは秘密の隠し場所へ、竹刀バットは行儀よく小脇に抱え直す。

すりガラス越しの赤いテールランプはさながら警報器のようで、急に慌ただしくなる道場のざわめきもまた楽しかった。

 

またあるときは、19時になっても19時半になっても、とうとう20時になっても先生が現れないことがあった。

おそらく仕事が長引いて、各家庭へ連絡が遅れたのだろう。

いま思えばなんとものどかな時代だが。

19時を過ぎたあたりでその日の完全勝利が高らかに宣言され、道場は子どもたちの楽園となった。

そして、野球にサッカーに、思い思いの遊びに興じる。

だれも自主的に竹刀の素振りをしようとはしなかった。

だれも剣道など好きではなかったのである。

 

そんなにイヤなら「辞めたい」と言えばよかったのに。

あの頃、なににそれほどこだわっていたのだろう。

あるいはなにかに怯えていたのだろうか。

辞めたくても辞められない理由などなかったはずだが。

30年近く前の感情は、やはりもう覚えていない。

黒澤明の『夢』やルイス・ブニュエルサルバドール・ダリの『アンダルシアの犬』など、作り手が夢で見た光景を映画化した作品は比較的多くある。

あるいは夏目漱石の短編集『夢十夜』やハワード・フィリップス・ラヴクラフトの『忘却の彼方へ』など、夢を題材とした小説も枚挙にいとまがない。

シュールなものや奇怪なもの、願望を充足するものなど種類はさまざまあれ、たしかに夢は創作のための豊かな源泉なのだろう。

 

漱石よろしく、こんな夢を見た。

山間の村、田んぼの畦道にトラクターがとまっている。

民家はまばらで、コンビニなどあろうはずもない。

私はそこの村役場に勤めていて、少し年下の同僚女性にほのかな恋心を抱いている。

いわゆる独身貴族というやつで、何不自由なくのほほんと暮らしていた。

あるとき、警察がやってくる。

私を逮捕しに来たのだ。

その時になってやっと私は取り返しのつかないことをしてしまったと恐れおののく。

私はどうやら人を殺したことがあるらしい。

時期や方法ははっきりと覚えていないのだが、殺めた記憶はたしかに残っている。

夢ではなく、これは現実なのだ。

現実に私は人を殺し、後ろめたさもなく今まで暢気に暮らしてきたのだ。

猛烈な恐怖と後悔に襲われ、自分の人生に起こったことの大きさに向き合うことができない。

絶望に打ちひしがれたまま、今後の行く末を案じていると目が覚める。

よかった、夢だった。

汗ぐっしょりのベッドから起きて熱いコーヒーを淹れる。

湯気と苦味でようやく覚醒してきた頃、急に漠とした不安に駆られた。

待てよ、あれは夢ではない。

私はやはり人を殺したことがある。

あれは逃れられない事実で、夢オチなんかではなかったのだ。

恐ろしい。

死刑になることよりも人を殺めた事実が恐ろしい。

これは今後、私が一生をかけて向き合うべき問題なのだ。

どうすればいい。

頼るべき人もいない。

私は破滅だ。

 

と、いう夢を見た。

悪夢だと思ったら現実だった、という夢ほど怖いものはない。

夢から醒めてもまだ夢の中、いわば夢の階層というアイデアは映画『インセプション』の影響だろう。

こうなるともう、今この瞬間の現実さえ疑わしくなってくる。

いつかこの夢からも目覚める時が来るのではないか。

まったく違う現実が、何事もなかったかのようにまた始まるのではないか。

そしてそれもまた悪夢のような現実で。

以下、繰り返し。

 

疲れてるのかもしれない。

休みが必要だ。

いや、やっぱり、たんに映画の見過ぎだろう。

幼稚園の卒園文集の「好きな食べ物」の欄には「大根の味噌汁」と書いた。

大根とは我ながらシブい。

小学校の卒業文集の「いま思うこと」の欄には「カツ丼食べたい」と書いた。

こちらはシュールを気取ってひどくサムい。

ちなみに私の隣には、町内で同じく寺の息子であったT君の言葉があった。

「立派なお坊さんになってお父さんを助けたい」

編集した担任の先生の悪意を感じるが、それはこの際どうでもよろしい。

彼はいま立派なお坊さんになっているし、私はいまだにカツ丼が好きなのだ。

 

レアチーズケーキの上にかかったクランベリーソースが好き。

白と紫、定型と即興、コスモとカオスの対比はどこか詩的でさえある。

 

寒いのは嫌いだが「寒いね」と言い合うことは好き。

ビル風にさらわれないように、小さく掛け合う言葉があたたかい。

 

夏の夜の寝苦しさに足先で探るシーツの冷たさが好き。

つかの間の快楽を求める往復運動、夢と現のあわいにまどろむ。

 

詩とはなにか。

それはバランス感覚。

詩とはなにか。

それはつかず離れずの温度感。

詩とはなにか。

それはおそらく恋に似て。

 

しゃべりすぎてはいけない。

沈黙を、余白を、吸う息を、相づちを、微笑みを。

 

詩とは不可能なことを信じること。

奇想天外なところに出口が開くこと。

 

そうして彼女は去った、愛に似た何かを残して。

仏に縁がある。

お寺とフランス、漢字で書けばどちらも仏。

 

18歳の冬、国立大学の受験に失敗し、第二志望の私立大学へ行くことになった。

第一志望は教育学部だった。

ぼんやりと英語の先生にでもなろうかと考えていたのである。

第二志望は文学部だった。

こちらは出願時に英米文学、仏文学、独文学、日本文学のなかから志望順位をつけさせられる。

ぼんやりと英語の先生にでもなろうかと考えていたので、第一志望に英米文学、第二志望に仏文学を選んだ。

仏文学専攻に合格した。

 

第一志望の大学には落ちたし、第二志望の大学のなかでも第二志望の学科にしか合格できなかったことで私の自尊心は傷つき、人生に対する敗北感がその後しばらくしこりとして残った。

しかし、神戸にほど近い閑静なキャンパスで香り高きフランス文学を学ぶことは私の性向に合っていたのかもしれない。

時の流れに取り残されたようなイケおじイケおばインテリ教授たちに、フランス語をイチから教わりながら好きな作家の研究をする。

すぐにその、象牙の塔と言えば響きが良すぎる、ぬるま湯のんべんだらり生活に浸りきった。

ここで自我形成されたペダンチックな生き方は、いまもそれほど変わっていない。

 

とはいえ、親元を離れて好き放題に暮らしていた私は、大学にも碌に行かず遊び呆け、必要最低限の単位で卒業した。

本格的にフランス語を学び直そうと思ったのは、大学院進学のタイミングで専攻を仏文学から映画研究へ変更してしばらく経ってからだ。

知らない人ばかりの大学院生活に馴染めなかった私は、そもそも修士課程の2年間で修了するつもりだった。

しかし、大学4年次同様、そのときも就職できなかった。

しかたなく博士課程へ進むことになった。

腹を括って研究者になるには自分の強みを見つけるしかない。

そこで何を思ったか、フランス映画を専門にしようと思ったのである。

卒論こそコクトーの映画で書いたとはいえ、修士課程ではアメリカのインディペンデント映画を研究し、修士論文ジャームッシュだった。

そんなレベルで研究者としての強みを、ぬるま湯でひと口齧っただけのふやけたフランス語に託しただなんて、浅はかな考えであった。

 

もっと浅はかだったことは、博士課程の2年目に休学して単身パリへ留学したことだろう。

留学よりも「遊学」の漢字の方が感じが出るのは否めないが、とにかく日本を離れたかった。

何を根拠にしてか、行くなら今しかないと思っていた。

親をだまくらかして1年間パリで暮らすお金をふんだくったはいいが、研究と言われても何をしていいかわからず、とにかくひたすら映画館に通った。

さすがにリスニングとリーディングの能力は上がったように思う。

しかし、それが何になったというのか。

アカデミックなことは何もせず、パリの空気を吸ってただ生きていただけ。

26歳の1年間は、我が人生最大のモラトリアムであった。

 

唐突だが、漫画『スラムダンク』の谷沢くんが安西先生へ宛てた手紙の一節が好きだ。

「バスケットの国アメリカの、その空気を吸うだけで僕は高く跳べると思っていたのかなぁ」

その後、安西先生は白髪鬼から白髪仏へ。

あ、ほらまた仏。

必要以上に死を恐れる人がいる。

タナトフォビアという症状らしい。

私はおそらくそれだ。

 

お寺の子ということもあり、妙な言い方だが、死には慣れ親しんできたつもりだ。

ただし、それはもちろん他人の死である。

それとは別次元で、自分自身の死を考えるとどうしようもなく不安になる。

二度とまた私という存在に再生することはないだろうし、そもそもこの意識がいつかなくなってしまうことが理解できない。

私は二度と目覚めることがないのにいつまでもこの世は存在するなんて、そんなことあってたまるかと思う。

 

お恥ずかしい話、今でもときどき、死ぬことが怖くなって夜中に大声を出してしまう。

小学生の子どもならまだしも、もうすぐ四十になろうかという大の大人が、である。

大きな声を出すと一旦は落ち着くのだが、その強迫観念はウイルスのように体に潜伏を続ける。

そしてまた半年に一度かそこらの間隔で、出口のない実存的不安に襲われる。

しかも厄介なことに、この死神は夜中のベッドの中だけでなく白昼のデスクの上にも突如として現れるのだ。

 

ハイデガーが言うように、自らの死はだれにも体験できない。

死ぬときには自分ではなくなっているのだから、いくら存在の不条理を嘆いてみてもそこに救いはない。

死ぬ気でなんでもやってみろ、と自分に言い聞かせていくぶん破天荒なこともしてきたが、どれも根本的な解決には至らなかった。

 

10年ほど前だったか、『トランセンデンス』という映画を見た。

脳のデータをパソコンにアップロードして、ネット上で永遠に生き続けようとする話だった。

肉体は滅びても精神は器を替えて保存される、うんぬんかんぬん。

最近では、チラホラと都市伝説的に、そういったSF世界の到来がまことしやかに囁かれているようだ。

生きているうちに間に合うだろうか、なんてことを結構マジで考えていたりする。

 

不老不死は幸せか?

とりあえず、そうなってみないとわからない。

 

映画『勝手にしやがれ』で、ジーン・シバーグに「人生の野望は?」と聞かれたジャン=ピエール・メルヴィルは「不老不死になって死ぬこと」と答える。

これぞ、我が意を得たり。

 

とはいえ、新年からなんと陰気な話だろう。

でもまぁ、思いついちゃったんだから、しょうがない。

とりあえずの気晴らしとして、目の前のタスクをこなしていくべし。